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Hummingその果実

これまでに読んできた書籍から、どんな語句やフレーズに影響を受けたか。 日々の生活や人生にどう活かされたか、参加者の個人の経験と原理の理解を綴ります。
 

エメット・フォックス著“THE SERMON ON THE MOUNT”(山上の垂訓)

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なぜ、エメット・フォックスを読むことにしたのか。 「草創期のアクロンのメンバーが読むように薦められていたらしいのだけど、日本語訳されたものが無いのよ。でもどうにかして読んでみたいね」。そんな会話をしていた年明けの朝のミーティングで、参加していたメンバーが「自作の機械翻訳したものでよかったら。」と申し出てくれたのだ。神の介入(奇跡)をすらおぼえた。
AAとエメット・フォックスの関わりについて、海外のAAホームページにこんな記述があった。草創期ニューヨークのメンバーも何らかの影響は受けていたのだろう。
共同創設者のビル・Wと協力したごく早期に回復したアルコール依存症者の一人にアルという男性がいた。彼の母親はニューソート哲学の人気講師エメット・フォックスの秘書だった。初期のグループがニューヨークで会合していたとき、メンバーは会合後に休会し、フォックスの講義を聞くためにスタインウェイ・ホールに行くことが多かった。今日に至るまで、会議が承認した AA 文献とともにフォックスのパンフレットを配布する AA グループが存在します。 (HP「AAアラバマ第2地区」 AAの歴史 より引用、Google翻訳のまま)
 
また、もう一人の共同創始者ドクター・ボブはじめアクロンのメンバーにおいては顕著である。
一九三八年から三九年にかけては、朝の瞑想の時間が、回復のプログラムの重要な要素とされていた。そして、初期のメンバーたちが、多くのインスピレーションを汲みとってきた宗教的な読み物も重要視されていた。 (略) 読み物としては、もちろん、聖書が重視されていた。それから、エメット・フォックス著『山上の説教』にはたいへん人気があった、と多くのメンバーが語っている。ドロシー・S・Mは、「その本を読むようにと、だれもが薦められていました。入院患者の眼の焦点が定まってくると、『山上の説教』が差しいれられていたのです」 (『ドクター・ボブと古き良き仲間たち』p.220)
 
ニューソート哲学の基本原則は「神は唯一の力であり、悪は実体がない」としているから、「悪や原罪は存在しない、人間はそれを償う必要もない」という方面が強調されると、AAのプログラムとの違和感が生じるきらいがある。 しかし、エメット・フォックスの『山上の説教』でいう「人間は神の子であり、神は完全な善である」とした簡潔さや力強さは、AAでの「力と単純さを旨として」(「アルコホーリクス・アノニマス」第四版に寄せて)に通ずるものがある。 また「この世で最も無益なことは、過去の認識の上に生きようとすること。あなたにとって霊的な生命を意味するのは、今ここであなたが神を実感すること」などは、一日一日を大切に生きるAAのスローガン「今日一日」の根拠ともいえよう。 ほかにも、「最初はまったく許せないと思われるほど許しがたいことそのものを許すこと」が「祈りは、私たち自身の神からの赦しを与え、つまり罪悪感と束縛からの脱出を意味し、まさにこのことに依存している」からだとするのは、AAでの棚卸しと祈りの関連性を理解するに役立つ。 AA哲学が影響されたエッセンスを探る一冊となるだろう。
 
 
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Trespassは不法侵入のこと      
Forgive Us Our Trespasses, as We Forgive Them That Trespass against Us 我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え (Emmet Fox “THE SERMON THE MOUNT” The Lord's Player, p.183)
 
寝不足がかなり非効率的だとわかったのも酒を飲まなくなって4年が経ってからだ。 昼寝をして、夢から醒めた。 新しいことが私を衝くのだ。なんどもなんども。底のほうがあがってきて私をついたように。 高校の茶道室にいた。夜間だから不法侵入だ。今の茶道部員が丁寧に片付けていった跡がうかがえる、キチッとした水屋。 かつての茶道部員でしかない私が、勝手な振る舞いをいていいわけがないのは分かっている。だけど、だけどもう弱ってしまった年老いた母と、いつもわたしに憧れていた幼い妹に、どうしても、お茶を点てようとおもうのだ。適当なお茶碗を二つ。抹茶の粉は掬おうとおもうと少し水が入っていて、美しい所作には全然とどかない。まごつく。でも、少々濃いめで常識よりちょっとたっぷりめで、あったかいお茶を点てるんだ!だって2人は喜ぶに違いないんだから。まごつきながら、明日使う茶道部員にバレるだろうかと過ぎった。キチンと洗って後片付けしてこの場を使わせてもらったことにお礼がいえれば、なんだか大丈夫なような、気がしていた。 夢なんだ、夢なんだけど。事実かつて高校時代は茶道部員で、学園祭に母と妹が来てくれたのだった。今から35年も前になる。摂食障害で皺々の私と私に寄り添う妹との笑顔の硬いツーショットが残っている。
罪とは神の領域に不法侵入すること。
 
数々の不法侵入をしてきたとおもう。頭では分かっていても、それを犯してしまう。責められるのが恐いから、隠してきた。 でも、それをせずにいられなかった。それをすることに夢中になってしまうのだ。自分自身では、コントロールは効かない。 酒を2杯でやめておけるコントロールも、いつからかもう効かなくなってしまった。 ただ、夢であっても現実的なものだ。自分の思うような結果が得られるとは限らない。私が必死になって点てたお茶を、2人が喜んだという事実は描かれていない。
夢の中で、神は私を責めなかった。 「だからね、それでもせざるを得ない衝動があなたには、あるのです。罪の意識を感じたあなたは、わたしの存在を意識したからでしょう。」
数々の不法侵入をしてきた、わたしがいまもなお、赦されているのはなぜか。 「それでもなお、、せざるを得ないことをやりなさい。新しいことのほうをやりなさい。」 込み上げるような衝動でこの文章を書いている。
てん AA.HummingBooks Gr
 
 

ヘンリー・ドラモンド著『世界最大のもの』

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仲間のおかげ
神様に出会わなくても、私には私を理解してくれ、話を聞いてくれる友人も仲間もいた。でも、私の依存行動は止まらず、人生がどうにもならなくなった。そして、神様に降伏しステップを始めた。その頃、私の周りでステップをやっている仲間はいなかった。スポンサーは、違う依存対象の別のグループの仲間だった。そんな環境でステップを淡々とやり続けた結果。ある日、神様が突然、私の強迫観念を取り除いてくださり、はっきりとした霊的体験をした。私は一心に神様に感謝するようになった。だからなのか、それ以来、「仲間のおかげ」という言葉に違和感を感じ、私には全くしっくりこない。そのうち、私の中で、神様のみが一番重要で、仲間がいることの重要さや感謝は薄れていった。
今回、分かち合ったドラモンドの「最大のもの」は、かつて一人で読んだ時、途中でこんなのやってられねーと思って、流し読みで終了し本棚に眠らせた本だった。それから、数年後の今、輪読していて、今まで、神様がすべて、神様が一番と思っていた私だが、本の中盤あたりで、かつてのように、こんなの無理、やってられねーよ。と投げだしそうになった。でも、仲間は「耳が痛いね。」「一人じゃ読めないよね。」と言いながら、仲間は投げだす気配もなく、直視し、分かち合いを続けていた。
その時、私は神様と繋がり続けるには、私には仲間が必要なんだなと思った。思えば、神様に降伏する前、人生がどん底になり、頭の中はぐちゃぐちゃしていた。でも、吐き出さないとおかしくなると思い、言ってること意味不明だろうなと思いながら、ミーティングで、ぐちゃぐちゃの頭の中にあるものを言葉にして話していた。それを受け止めて聞いていてくれた仲間がいた。それがあったから、整理ができて自分の無力に気づき、降伏することができたのだった。
仲間といろんな分かち合いをする中で気づくことも沢山ある。仲間がいたから、気づくことができ、ステップをやり始めた私。やり続けるためにも気づき続けることは大事だろう。また、私は数年前に仲間の沢山いる関東から、田舎の地元に帰ってきてミーティングも少なく仲間に会えない状態となり、分かち合う機会も減っていた。そうなるとステップをやり続けるのも億劫になっていく・・・。
私は思い違いをしていた。神様だけが大事なのではない。私の強迫観念を取り除けるのは今でも神様のみだと思ってる。しかし、仲間がいないと自分の病みに気づくこともなく、強迫観念を取り除いてくださる神様と繋がる努力も一人でできなない私には、神様も仲間も同じくらい大事だった。だからこそ、ステップの主語は「私たち・・・」なのかもしれない。私の回復は神様と仲間のおかげだった。AA初期に読まれてた神様だらけの本を分かちあい、ステップの神様をもっと知りたいと思い参加してるミーティングで、私は仲間のおかげを知ることとなりました。これも逆説というのかもしれない。みんな今までありがとう。そして、これからもよろしく。
 
ゆき AAA
 
 
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「変えられていく生活」p.130より                                
ヘンリー・ドラモンドの最後の方の部分しか読み合わせしていないのですが まとめとしての自分の感想をお送り致しますね
ドラモンドは、神父と違って牧師である事もあり。また研究者でもある事から中々文章が哲学的で厳しい言葉も多く、自分には難解でもあったのですが 最後のまとめの読み合わせ箇所だけではありますが、自分なりの理解が出来ました
特に「キリストを着る」文字通り着れれば良いのですが カトリック的解釈をすると 「キリストと共に歩む」に当たると感じました こちらの表現も難しいかも知れませんが 「キリストと共に歩む」の意味の中のひとつに 自分の十字架を背負って生きる。という大きなひとつの意味があります これは、どんな困難や苦難からも逃げる事なく。聖書には「自分の軛を背負って私についてきなさい。休ませてあげよう」からの引用で カトリックでは時々使われる言葉です
厳しい道のりですが、困難から逃げずに自分の十字架を背負い。主と共に歩めば「人は必ず変われます」 自分が変われば、必ず周りの人も変わっていきます。神父さんにも「その通りですよ」とお話いただきました。 僕の周りも随分良い変化を頂いております
そうやって、キリストと共に歩む道は、いつしか自己犠牲さえ問わなくなるところが自分に生まれ、僕も実際。何度か自己犠牲の様な事をした記憶があります これはらは、自分の体験の話で、本当の事です
僕は酒が止まって本当に良かったと思ってます 酒が止まったお陰で、神様からとても大きな恵みを頂き、アルコールが原因の難病にはなりましたが 何不自由なく全てが順調で幸せに過ごしております
ドラモンドを読み合わせてみて「最後に疑問が確信」に変わったのですが 微笑みGの中では。「ステップはやらなくても良い。何年先でも気が向いた時にすれば良い。ステップは自分ひとりでも出来る。」などよく言われるのですが 意味が心底。理解出来ました。
僕の中での理解としては、12番目のステップを本当に理解し実行しようとした時 正直、ステップのどこから初めても良いのだと思いました。
実際、僕は1番目のステップを飛ばして、11ステップから始めてましたし 笑 1番目のステップは、アルコール以外の方にも必要でとても大切ではあるのですが 1番目から12番目まで順番を作るのではなく、12番目を考えた時に必要と感じたステップがあれば、それを実行するだけで良いのだと思ってます
自分の心の奥底に従うのが大切で、それが霊的な生き方のひとつなんだと今は強く思ってます
最後になりますが。ハミングブックに出会えたお陰で生まれ変わる事が出来たと感謝しております ハミングさんのミーティングに参加を初めて、近頃は不思議な事に、これまで思い出す事のなかった。幼少期の記憶やその他、様々な記憶が蘇りだし 反芻してみると、生まれた時から「神様の計画」があったのかもと大袈裟に考えたりしております 笑
長くなりましたが、今回の「ヘンリー・ドラモンド」さんの書籍に関わったお陰で得た気づきでした」
今後とも どうぞよろしくお願い致します
kazu. フリー
 
 
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